「自分がお腹をこわさない食べ物は何か」
それが私の食事の選択基準でした。
小さい頃からお腹が弱く、よくお腹をこわしていた私にとって、「食」とは「楽しい」ものではありませんでした。
日常的に整腸剤と下痢止めが必須という状態でしたので、新婚旅行や、出産後のストレスで、東日本大震災の恐怖でも下痢が続き、ついに体重が30キロ台になるなど深刻な状況に陥ってしまいます。
そんな私でしたが、気がつけば美味しいものを食べたいだけ食べられることに幸せを感じるようになれたのです。
出かけた先でトイレの存在を気にしなくなり、お出かけを楽しめるようになりました。
薬やサプリメントも要らなくなりました。
そんな自由を手に入れることができた理由をこれからお話させていただきます。
「女も手に職を」
と看護学校なら行かせてくれるという条件で進学を決め上京。医療学部の前身である慶應義塾大学付属厚生女子学院に入学し、私は憧れの東京生活を送ることになりました。
ですが自分を肯定できず、責め癖があったため、ドクターやナースとうまくコミュニケーションが取ることができませんでした。そこで、自分は看護師に向いていないと思うに至ります。それでも志半ばで挫折することに対して、自分で自分を許せなかったので、私は必死に続けました。
28歳の時、寿退職をしたくて高校の同級生の夫と結婚しました。この時も新婚旅行のハワイではずっと下痢でした。
私は、看護学校の授業で「10人に1人が不妊症」と聞けば、自分はその10人に1人の存在だと思うような性質でした。ですから、夫との性行為は負担で、妊娠にも出産にも自信が無く、自分のおなかに10カ月も子どもを入れておくなんて考えるのも恐ろしかったのです。
それでも30歳で長女を授かることになるのですが、「切迫流早産」で3ヶ月入院の後、長女を出産します。
おっぱいの出が悪かったため、そのプレッシャーと家族との関係にストレスを感じ、ここでも下痢が続きます。
そして不眠。
私は育児ノイローゼになりました。
育児は全く楽しめず、断乳して日常が戻っても整腸剤は常に手放せない状態が続きました。
ちなみにそれから5年後、次女の出産も切迫流早産となり入院・点滴生活の末の出産となりました。
今思えば、自分の体も世界も全く信頼していなかったのです。
恐れと恐怖ばかりでした。
お医者さんが何とかしてくれると思っていた「依存」の中の妊娠出産育児でした。
37歳の時です。
自分を認められない私は、他者も認めることができませんでした。夫に対してはいつも不満があり文句が絶えませんでした。すでにあるものに感謝ができない私は、夫の家業である酒店にも、夫にも感謝することができず、常に不平不満だらけでした。
そんなあらゆるものへの否定から、私は玄米菜食の学びと出会います。
「正しいから」と、私は玄米菜食を押し付けて家族を変えようとしました。
ただ、体にいいかもしれないけれど美味しいとは思えなかったのが現実で、家族にも受け入れられないので、結局は肉も魚も普通に食べていました。
結果として、いいとこ取りの自己流自然食となり、調味料や食材には添加物の無いものを選んだり、作り手がはっきりしているものにこだわってはいるものの、正しい食をしているつもりになっているだけでした。
「ゆみこさんって知ってる?」
39歳の頃、地元の有機農研の招きで講演会のために来られた「大谷ゆみこ(つぶつぶグランマゆみこ)」さんのことを、家業の酒屋のお客様から聞きました。玄米菜食を学んでいた私はその時にゆみこさんを知り、雑穀を中心としたベジタリアンの食、そして学びである「未来食つぶつぶ」に興味を持ちました。
それから単発の料理教室だった「オープンクッキング」に通い始め、つぶつぶは美味しいし、面白いし、身体に良さそうだと思いました。初めてお会いしたその日に、私の甘えを見破り「全部責任を持って自分でやってみなさいよ」と仰ってくださったゆみこさんを、大好きだと思ったことも強く記憶に残っています。
そんなつぶつぶに本気で取り組みだしたのは、東日本大震災後からでした。
「世界の終り」だと思い、下痢と食欲不振で43キロに保ってきた体重が再び減り、ついに30キロ台に。この時には整腸剤も下痢止めも効かなくなっていたこともあり、つぶつぶの学びからも一切の薬をやめました。
ですが、震災をきっかけに「いいとこ取りだった」つぶつぶに本腰を入れるようになり、高校生の娘のお弁当も植物性100%になりました。
47歳の時。
「自分がするべきは何か」を問い直した私は、家業である酒店で自分のするべきことをしようと思い至りました。そこで、酒店で自分が受け持っていた自然食品・フェアトレード商品のコーナーが手狭になったことと、「自分で責任を持って」やってみたいと思うようになったことから、自分の店を持ちたいと考えました。このことをダメ元で夫に相談すると、逆に面白がってくれ、義母も「美紀さんがやりたいことができるなら」と賛成してくれ、酒店の駐車場倉庫を改装して「集い繋がる暮らしのお店 ヒナタヤ」を2011年10月にオープンさせました。
それから6年、私は「つぶつぶ料理コーチ」となり、反対運動ではない幸せな社会の実現に意識が向くようになりました。放射能の問題も、そこだけにフォーカスするのではなく、「日々の食」として「未来食つぶつぶ」を伝えていきたいと思うようになりました。
気がつけば心配だったお腹は何ともなくなっていて、思い切り好きなだけ食べられる私になっていました。ずっと憧れていた「美味しくて楽しい食生活」を送ることができています。
制限が一つなくなると、他にも制限をかけていたのは自分自身だったことに気づきます。夫が私の背中を押してくれたのは、私が優しく変わったからでした。25年も一緒に暮らしてくれる夫こそが、私にとって「特別な人」だったのだと気付きました。
幸せな現実になりそうになると下痢になる。
「こんなに幸せになってはいけない」と自己否定が出てしまう。
弱い自分でいたら責任を取らなくていいので、親や夫や社会に依存しながら否定する甘ったれだった私。
そんな私を目覚めさせてくれたのは「つぶつぶ」でした。
薬やサプリメントが要らなくなっただけではなく、イライラしなくなったり、何事にもおおらかになりました。日々の不安が無くなりました。
若く見られるようになりましたし、肌がきれいになったといわれたり、「かわいい」なんて言われるようにもなりました(笑)
自己否定の塊だった私が、好きなように料理していたら、実は人生が思い通りになっていました。今の私は、自分がどんなに恵まれて幸せなのかを実感しています。この幸せを皆さんにもお分けしたい。自分の体の持つ力を信頼して、ワクワクと夢に向かって歩く人が増えたら、きっと世界は平和になると思います。
あなたも私と同じように「つぶつぶ」で自由を手に入れてみませんか?
まずは体感会で、「つぶつぶ」に触れてみてください。あなたにお会いできるのを楽しみにしています。
(※あくまでも個人の体験談です。)