長男が中学の時でした。
保護者主催の早池峰山、姫神山、岩手山登山に参加した夫。
小さな子供も楽々登っていく中、「ふぅ、ふぅ…」と息切れはするし、登山一行からは、どんどん離れる一方。重い体と持久力の無さ、という悲惨な状況を体験したようです。
後日、その時の様子をビデオで見ていた時でした。
「あの、すごーいデブって、だれだ?」
と思って見ていたら、なんと自分だった・・・・。夫は、客観的に自分の姿を見ることがなかったらしく、とてもショックだったようです。
それから、夫はつぶつぶを積極的に食べるようになりました。食べたいという欲求は抑え込まないで、つぶつぶを美味しく、食べたいだけ食べるだけでした。でも、自然と体重が落ちていったのです。
その結果…
7年かかりましたが、30kgの減量に成功し、20代の体重に戻りました。当時の夫の服は、ダブダブです。
私は国家資格でもある管理栄養士でした。
昭和40年代まで雑穀食が続いていた岩手県岩泉町生まれ。雑穀があることが普通という子ども時代を過ごしました。
幼い頃から体が弱く、健康への憧れが強かったため、22歳で岩泉町の栄養士となり、保育所の給食の献立作成などを担当しました。スキルアップのため31才で国家試験を受け管理栄養士に。約35年間、離乳食から介護食まであらゆる食指導に携わりました。
私が栄養士になった当時は、一部の栄養学者や医学者によって日本本来の食事が低く評価されていました。ヨーロッパで生まれた栄養素を基本とした西洋栄養学が主流となる波がどんどん高まっていました。
その結果、日本は戦後に世界で類を見ないほどの短期間で、食生活が大きく変化してしまいました。それまでの生活にはほとんどなかった小麦とパン、牛乳、卵、大豆油の消費量が激増しました。一方で、米やイモ類、野菜等、日本人が昔から食べていた食品は激減したのです。
そんな時代の流れの中で、雑穀が主食の日本的食生活で育った私は、栄養士の仕事をしながらも、「栄養価計算された食事=健康バランス食」という理論に違和感を感じていました。
食事指導のために高齢者のお宅を訪問すると、昔ながらのシンプルな食事。それでも健康でイキイキと畑仕事に精を出す方々とたくさん出会いました。その一方、子供たちの間では、ひどいアレルギーの症状がどんどん増えていくのを目にしました。
畑と直結していた食生活が凄まじい勢いで失われていくこと。アレルギーや病気が後を絶たないこと。そんな現実に「このままでよいのか」と漠然とした不安が膨らんでいきました。
47才の時、あるプロジェクトのチームメンバーの紹介で、つぶつぶグランマゆみこを町のイベントの講師として招きました。その縁で、私は未来食つぶつぶに出会いました。
グランマゆみこの著書「未来食」は、管理栄養士だった私がずっと知りたかったこと、食に対して長年抱いてきた違和感を解決してくれるものでした。食の真実に驚き「塩」に対するイメージも一変!日本人1人が1年間に必要な食べ物を知った時は、「昔の岩泉の食と同じだぁ!」と感動しました。それから、つぶつぶ料理は理屈抜きに「美味しい!」という感動を何度も体験させてくれました。
そのうちに「近年の食をめぐる様々な問題は未来食つぶつぶで解決できる!」と確信を深めた私は、56才のときに管理栄養士の仕事を早期退職したのです。
自分がやりたいことを思いっきりやってみようと決心しました。
2013年につぶつぶのあるセミナーに参加しました。
「私も何かやらなきゃ!」
と家に帰った後、作ってみたい畑のイメージを絵にしました。それが、今はそっくりそのまま現実となっています。
つぶつぶに食を変えて7年で30キロ痩せた夫は、現在もリバウンドなく体重を維持しています。健康健診で、このままいくと大変なことになるとドクターから指導があった当時の夫は50代前半でした。それが20代の体重に戻ったのです。現在は畑作業や山仕事と、フットワークよく、てきぱきと動きます。体調を崩すこともなく、当の本人も体が軽い、と口癖のように言うようになりました。
93歳になった今も元気に畑仕事に精を出す母。畑の師匠である親戚のお姉さん。現在は元気な家族や仲間に囲まれて、ヒエやアワなど5種類の雑穀を栽培しています。
栄養士時代、様々な葛藤の中で生きてきた私にとって、何の矛盾も迷いもなく、のびのびと暮らせる毎日は本当に幸せです。
栄養士としてまっしぐらに突き進んできた私だからこそ、そして、雑穀の里で生まれ育った私だからこそ、あなたに伝えられることがたくさんあります。あなたの家族の健康や食への不安をきっと解決できると思います。
畑丸ごとつぶつぶ暮らしの心地よさを、私の家庭から地域へ、世界へと広げていきます。
あなたとお会いできることを楽しみにしています。
(※あくまでも個人の体験談です。)